いとしい後悔背負って

V6が好きな社会人。勉強、旅と時々仕事。

語学学習

素敵な記事を見つけたので備忘録。

Having a world of languages out there and not learning them is like watching TV in black and white and not knowing there is colour. They will continue to enrich me for a lifetime.

 

www.theguardian.com

 

日本語だけできればよくない?と言われることも多いけど、やっぱり言語は世界を広げてくれるし、だれに何と言われようとたくさんの言語を学習したいなと思うこの頃。

Recent interests

最近気になった記事

neurosciencenews.com

FOMOと似ているのかもしれない。ほかの人と同じ量のニュースを得ていないと不安になったり、遅れているのではないかと思ったりする。ニュースを得るツールはいくらでもあるのに知らないことは悪いことなんじゃないかと思ったりもする。でも人間の脳と一日の長さには限界があるから、どうでもいいゴシップとか考える必要もない他人の話題にまでアンテナを張っていても自分にメリットはないなとこの記事を読んで改めて思った。

どこでだれが炎上しようが自分の生活は変わらないし炎上した人リストがあっても自分に益はないかなあ。

クリックベイト見てる暇あったらもっと生産的なことに時間使ったほうがいいかなと日々の自分の行動を反省した。

あと「経験重視にするべき」と「持てる人」が発言して話題になっている件でこんな論文を見つけた。いろいろな研究がなされているトピックではありそうだけどこれも面白い、今後の展開に注目したい。

Koo, Hyunjin J., et al. “If I Could Do It, So Can They: Among the Rich, Those With Humbler Origins Are Less Sensitive to the Difficulties of the Poor.” Social Psychological and Personality Science, June 2022, doi:10.1177/19485506221098921.

https://journals.sagepub.com/doi/full/10.1177/19485506221098921

 

Twitterは専門家から素人までいろいろな意見を無料で得られる便利ツールな反面、時間が溶ける割に何も脳に残らない特徴がある。

最近ほぼ唯一脳に残ったのは以下の記事。

note.com

 

ちなみに定期的にチェックしていつでも発見があるのはこの方。お気に入りです。

twitter.com

 

 

 

後から指摘すること

かなりトラウマになってて、いまだにこれは苦手。

 

「過去にこんなことをされて嫌だった」

「本当は~してほしかった」

「喜んだふりをしたけど本当は嫌だった」

 

みたいなことを後からいってくる人が一定数いる。正直意味が分からない。謝ってほしいのか何なのか。

謝ったところで過去の出来事は変えられないのになぜ言ってくるのかわからない。

「本当はこう思ってた」とか言われると「当時言ってよ…」としか返せない。想像力を働かせれば私の気持ちわかったでしょ?とか、現代文の読解じゃないんだから…何を言っているのか…。

「察してほしかった」系も一番厄介なタイプ。「察せなかった」こちらが悪いかのような言い方をするけど、要望を相手に伝えるのって人間関係の割と基本では?自分の落ち度を棚に上げてこちらだけが悪いかのような被害者面するのって、結局自分がかわいいからだよね。

私も自分が一番大事だし、しんどい時、病んだ時に裏切らないのは自分だけだと思ってるから人のことはどうでもいい。ほとんどの人がそうでもいい存在で、数人大切な人がいればいいかなという。

だから、「察して~」系の人は良く他人にそんな期待できるなともはや感心している。自分以外に期待するのは時間の無駄だと思うし、期待が裏切られたとき不快になるのも嫌だから別にどんな行動をとられようが私への実害がなければ放置スタンスなので。

 

以心伝心、顔を見たら要望がわかる、みたいな関係でもないのに「察する」ことを強要してくる人ってちょっと良くわからない。

 

正直誰にも徳がない指摘では?指摘されたほうも気分悪いor申し訳ないと思っても何も埋め合わせできないし、言ったほうも何を求めてるのか…。相手を嫌な気分にさせたいだけなのかな。

後から指摘する人ってその癖が治らないみたいで、こちらの精神によくないからためらわず関係を切っていってる。

 

矛盾

 

「今の若者は情報に追われて時間がない」

「今の若者はコスパを重視するから映画を早送りで見る」

というような「今の若者は~構文」をよく見る。

 

時間を費やすなら得るものが多いほうがいい、というのはわかる。

でもそうしたら例えばTwitterInstagramYouTubeTikTokなどに費やす時間って必要?って思ってしまう。

スクロールしてるときはあたかもたくさんの情報を得たかのように感じるけど、それが終わった後脳内に残ってるのって果たしてどれくらい?

時間を溶かしてる感じがする。

 

その時間別のことに充てれば、そこまで「時間がない」「忙しい」にはならないのではないか、とか。

 

自分も含め、コスパの良い時間を過ごしたいなら日常の過ごし方を見直したほうがいいかも。

 

 

 

アルバイトと社会主義

ふと思ったこと。

 

社会主義経済下では賃金が決められているから労働者の労働意欲がもたない、みたいな話はよく言われる。

でもそうしたらアルバイトも同じではないか、とふと思った。

時給が決められていて基本的には決められた時間働けば良い。

最低限のことだけやっていればいいのでは、と考える人も多いのではないかなーとか。

かといってどんなシステムならやる気が出るのかはわからないけど。

ちなみにこの考えがわいてきたのはオプション付きの風俗で働いている方のツイートを見た時。「オプションの多さで給与が決まるから工夫する」というような内容だったのでこれはやる気出るシステムだなあと思った。

 

 

 

 

 

 

感情の置き場所と教育

 

元首相が亡くなった。SNSやメディアでの投稿に辟易している。

主語を大きくするのは好きではないけど、「日本人」って感情と事実の境目をつけるのが下手だと思う。人が死んで悲しいことと、その人が何をしてきたかは別に考えるべきだと思う。

 

元首相の死亡→事実

アベノミクス効果→△…恩恵を受けた人も受けなかった人もいて、受けた人はmainly high status people in societyとかsome individual investors、foreign institutional investorsだと思っている。

日本の景気が上がる=株価が上がるだけど、正直株価が上がったところで多くの人々の生活には影響を与えない。でも、海外投資家からしてみれば、日本株式で儲けることができるからそりゃ海外からの評価は高くなるのは理解できる。経済界からの評価が高いのも同じロジックだと思う。株価が上がれば金融機関は取引が活発になるから儲けられるし、上場企業も資金が増える。

アベノミクス相場は2012年11月~2015年12月と言われているけど、確かに該当期間の海外投資家の参加率は高いと思う。

長期政権…事実、いいか悪いかは事柄による。

外交の観点からすると、長期政権は政情の安定を意味するため対外的に印象が良いと思う。しばらく1~2年で首相が変わることを繰り返していた時期もあったため、安定は必要だったのかもしれない。例えば、ロシアとの領土問題ではこの長期政権の間に結論が出なければ不可能、みたいな意見も目にした。

ただ、安定というのは停滞と同義ではないかとも思う。現状維持もしくは中心メンバーが変わらない状態で物事をすすめたらそれはうまくいくにきまってる、ほかの意見を排除して強行採決したことも決して忘れない。

 

意見を言ったとき批判されると自分を否定されているように感じる人が多いという。そんな状態ではディスカッションなんてできないし、そういう人間を作り出してきた教育に問題があるのだと思う。

自分の意見を持つこと、人に伝えること、人の意見へ考えを返すことは大事なことだと思うけど、感情的になる人が多くて面倒。あなたの意見に意見すること≠あなた自身を否定することなんだけど、理解してくれない人が多い。

 

ちょっと話は変わるかもしれないけど、たとえばアーティストが逮捕されたときにその作品や出演しているものまで自粛されるのは違うのではないかと思ってしまう。性犯罪で逮捕される人も多いから一概には言えないけど、その人に対する感情と事実(この場合だと作品、世の中に出ている実在するものたち)は別にして考えるべきだと思う。

 

感情と事実を別にできる人が少ない+選挙や政治への無関心度が高いからこそ今回の参院選は「なんかかわいそうだから自民党に」みたいな票が増えそうで気持ち悪いし怖い。

 

死んだら生きていた間にしていたことは全部善になるの?死人に口なしだから死んだ人に意見を言うことはよくないの?じゃあ生きてる人にを誹謗中傷するのは許されるの?

 

世界が全然理解できない。

 

無駄なお金を使って使えないマスクを配った挙句まだ在庫が残ってるのに、「国民と安倍さんの思い出の品、泣ける、せつない」とか書いてる人たちの気が知れない。あなたたちが非難しているウラジーミルと仲良しだったこと覚えてる?そこは感情的にならないの?あれだけ虐殺してる人の友達だったんだよ?過去だから関係ないの?(皮肉です。)

「希望」「夢」「安心」とか抽象的な概念を用いて政策を表現するのも全くわからない。その「希望」「夢」「安心」の定義って何?そんなあいまいでいいなら何をしたって「これは希望です」って言い張れば政策実現したことになるよね?

 

一般企業のKPIでそんなあいまいな表現出てきたことないんだけど政治だから許されるの?そんなKPI掲げたらふざけてるのかって言われるよ。せめて数値目標にすれば進捗率とかあげられるのにそれすらしなかった。

森友・加計学園問題桜を見る会も何も明らかにせず死んだのは許せない。

 

ところで、非日常な出来事が起きた時のSNSへの投稿って結構本心が出るなと今回思った。今後付き合いたくないなと思う人も出てきたから早急に断捨離していく。

 

 

コンプレックス

の塊だった。

特に体系のコンプレックスがひどくて、高校までは人と比べてばかりで大学に入ったらよりよくなるために絶食までしていた。

体脂肪率が15%になっても大して見た目は変わらなくて、気づかれなくてだれにも心配されなくてそんなに意味はない数字なんだなと悟った。

 

そして食べて体重が増えることが怖すぎて食べられなかったのに、恋人には「どこが胸かわからない」というトラウマすぎる言葉を吐かれた。

別れて、留学して、自炊を覚えた。好きな時に好きなものを食べても罪悪感を抱かなくなった。自分の人生なのに、健康を害するほど太っているわけではないのに、なんで我慢しなきゃいけないのかと我に返った。

 

帰ってきてからも、「食べられる」というのは自分の状態を図る一種のバロメーターになった。どんなに病んでいても食べられればまだ大丈夫、と思って生きてきた。

おなかがすいているとき、寒いとき、寝不足の時は碌な判断ができないから危険を感じたら食べる、寝る、あったかくする。それだけでまだ生きていける。

 

最近少し食べ過ぎて体のフォルムが少し変わったけど、食べられないよりはまし、だし何より「どこが胸?」と聞かれた私はもういないというささやかな自信(笑)

 

コンプレックスを言い出したらきりがないから気にしないようにしてるし、努力してこのマインドに切り替えたんだから周りに何と言われようとこのまま生きていきたい。

 

生きていきたい、なんて2年前の自分は書けなかったなと思うと成長。ブログを始めたころの自分もまさかこんなに強くなっているとは思っていないだろう(笑)